​【特集】「相模原事件」と私たち<後編>

 東京大学本郷キャンパスで行われた「障害者のリアルに迫る」ゼミでは「<内なる優生思想>と向き合う」をテーマに、全7回の講義を行いました。今回はそのうちの第4回目『相模原事件と私たち-障害者運動の歴史から-』の講義の様子を前編・後編に分けて抜粋でお届けします。

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2020年2月13日

<質疑応答>

学生③:

 先ほどの方が「人間の生の権利を人間が規定することはできない、あるいはすべきではない」ということを質問されて、それは本当にそうだと思うんです。

 その答えで玉木さんは「生まれることは自分で決定できない」と仰っていました。それを聞いたときに、僕は反出生主義というのを思い出しました。自分で生まれることをそもそも選択できないのに、生まれてきて、生きなければいけないのが苦痛だからそもそも産むべきではない、という考え方。

 

 それについて自分は「うーん、確かに産むべきじゃないのかな」って納得出来なくはないのですが、それでも自分が産むっていうことを選んだ場合に、生まれてくる子が例えば障害がない子に育って欲しいとか、ちょっと願望してしまうことがあって。そこにすごく露骨な優生思想があるのを自分で感じます。この「産む」っていうこととどう向き合えばいいのかなっていう。

 

玉木さん:

 産むか産まないかっていう選択も結局、先に生まれたもん勝ち。先に生まれたものの価値観で決めちゃってるわけでしょ。そこが実は怖いところ。

 よくこの優生思想の話をするときに、女性団体とかに怒られるんですよ。「産まない権利もあるでしょう」みたいなことを言われるんだけど、「産んだ人が育てなあかん」っていう個別性の感覚が根強いんだと思います。

 

 でも、やっぱり生まれた以上は社会で育てるべきやと思う。そうすると、虐待で死んじゃう子供たちも救えるかもしれない。子供を育てたいっていう人が積極的に育てていくことで、やっぱりより豊かな生活を生きるっていうことに繋がっていくと思うから。

 産むか産まないかっていう二択、そういう思考自体が僕は何か聞いててしんどいなあと思います。

 

熊谷さん:

 「昔の優生思想は、本人意思を無視して実行されるっていうことがあったのに対し、最新版の優生思想は本人の意思を尊重する優しい顔つきで実行される」というのが児玉真美さんという優生思想を追いかけている素晴らしい書き手の方の本の中に載っています。「新優生思想」という言葉も使っておられます。

 出生前診断もそうですし、反出生主義もまさに本人の意思を尊重するというもので、それ自体それ以上の反論の余地がないんですね。

 

 ただ、社会における意思決定を考えるときにそこで忘れてはならないパラメーターが社会資源です。つまり、意思というのは、何もないところから生まれてくるのではなくて、現在入手可能な社会資源の中で、沸き起こってくるものです。

 

 例え話ですが、某ファートフード店は、客の回転率を上げるために硬いイスを使っているという都市伝説があります。都市伝説なので本当かどうかわからないんですが。

 しかし、客に気づかれない程度の硬さなので、その店を出たお客さんに「何故このタイミングで店を出たのですか」と訊くと、「なんか忙しかったから」とか、そういうふうに自分の意思という話術で行動を説明します。

 これは何のメタファーかというと、「店を出る」ということは死ぬこと、「店に居続ける」というのは、生きる続けることを選ぶというメタファーですね。

 では「硬いイス」はなんのメタファーなのか。生きるのを辛くさせる社会資源の欠乏状態です。

 

 よく尊厳死議連の方とかと議論をするときに、政治の役割は何だろうという話をよくします。もちろん硬い椅子に無理やり座らせ続けることを命じるっていうのが酷だということはよくわかる。だから意思決定を解禁したいという気持ちはもちろん分からんではない。

 しかし、硬い椅子をそのままにしたまま意思決定を解禁すると、それは、死ぬことを水路付けてしまうことと同じなんです。

 

 その辺りはこういう問題を考えるときに、一つのポイントかなと思います。その一例がさっき玉木さんのおっしゃった子育て。明らかに子育てっていうのは、一人では成し遂げられない事業です。

 データによれば、ヘルプが出せない親、依存先が少ない親はどうしても虐待の加害者になりやすい。頼るすべがない・頼れる先がない・資源のない状態で出生前診断を受けるっていうのは、それは中絶を選んでしまうだろう…と思います。

 じゃあ次に何をなすべきかっていうことをみんなで考えていきましょう。

学生④:

 障害者運動に詳しい荒井裕樹さんという社会学者の方が、やまゆり園の事件に対してこんなに社会が冷静なのはおかしんじゃないか、もっと怒るべきじゃないのかと仰っていました。京アニの事件なんかは3日ぐらいTwitterのトレンドに残り続けたけど、事件からちょうど3年目の日にもそれほど話題になっていなかった。

 それは何故なのかと考えたときに、多分みんなちょっと犯人の気持ちがわかるところがあるから、「自分なんかが批判していいのか」みたいな、そういう後ろ暗さからその静けさが生まれているのかもしれない、と思いました。

 

 これから先、こういう事件が起こらないために、今この社会に生き続けている者として、お二人は障害を持っている立場としてどういうことを発信していくべきだと思っているのか、また障害のないとされる人にはどういうことを発信していってほしいと思いますか。言い方がちょっと難しいのですが…。教えていただけたらと思います。

 

玉木さん:

 一つはね、京アニの方は日常なんよ。うちの子供なんかもアニオタやから(笑)

 京アニなんかは、関心を持つ人々の母数が全然違う。ところが相模原に関心のある人は障害福祉関係者限定。いろんなとこで名前は聞くけど、下手をすれば、被害者がすり替わっている。「お年寄りがいっぱい殺された事件よね」とか。なおかつ、「あれは津久井っていう山奥で起きた特異な事件よね」っていうふうに。

 みんなの中では整理済み・解決済みなんですよ。だからあえて掘り返す必要もないし、振り返る必要もない。

 だけど、ああいった事件ってこれからも実は起こりうる。

 

 今日僕はみんなに言いたかったのは、みんなが今考える続けること、みんなが今考えていることを友達とか家族に伝えていくことしか、実はもう手段がないんじゃないかなと。

 こんなこと言ったらあれやけど人間はもうポンコツが多い(笑)人間の力も限界があるよね。気付いた人がきちんと考えて、それを仲間に繋げて広げていくしかないかなと、僕は思います。

 

熊谷さん:

 難しいですね。

 あの手この手としか言いようがない、私は何をしているかぐらいしか言えないかなという気がします。

 やっぱり一生ものの宿題を負っている感覚っていうのはあります。

 

 いくつか例を挙げると、荒井さんは「怒る」っていうことを大事にしようとおっしゃった。もちろんそうなんですけれども、私が事件から10日目に追悼集会を開催したときに、二つの立場の方がいらっしゃった。

 一つは、恐怖や怒り、つまり被害者と自分を同一化していた方々。もう一つは、加害者だったかもしれないっていう恐怖に打ちのめされて、言葉を失っている施設職員、刑務所出身の方、薬物依存症の当事者の方。そういうみんなで主催する追悼集会をしよう、というのをすごく大事にしたんですよね。

 

 本当にいろんな構造があって、例えば、その後私がやったことは、数え上げ作業。「なぜ暴力は起きるんだ」っていう。殺すっていうのは最悪の暴力ですけれども、それの手前でも、今もたくさん障害者に対する暴力というのが起きています。その原因と考えられるものを全部列挙する作業をしました。

 例えば隔離的な施設、明らかに特に障害者の人数が多くて、スタッフが少ない大規模な施設は、暴力が起きやすいということが分かったりとか、そういうふうな基本的事実を確かめてそこを変えていく作業が大事だったと思います。それはまだまだ道半ばです。

 一方で、「加害者はなぜ人は暴力を振っちゃうんだろう」っていうこともやっぱり数え上げざるを得なかったですね。

 やっぱりそこには、何がしかのトラウマがあるとか、広い意味での傷が、その人の中にあることが多い。

 来年から刑務所にいる人たちが地域に戻るときのサポートに当事者研究を生かそう、っていう取り組みを始めるんですけれども、それをしようと思った最初のきっかけは、やまゆり園の事件からもらった宿題だったように思います。

 

 いろんな理由で正直になれない。自分の弱さとか自分の傷を正直にシェアできない人々が、それをいろんな理由で暴力に転化してしまうというのがある、ということを今感じているところです。

 相模原事件は現在、公判が行われているところです。植松被告の思想、やまゆり園の実態など、様々な事実がこれから明らかになっていきます。

 玉木さんのおっしゃる「考えつづけること」を止めないことを大事に、これからも社会と、そして自分自身の弱さや傷と向き合っていくことを胸に留め、「あの手この手」を尽くしていけるよう、これからもリアルゼミは活動を続けていく予定です。

 玉木さん、熊谷さん、ありがとうございました!

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