​【特集】「相模原事件」と私たち<後編>

 東京大学本郷キャンパスで行われた「障害者のリアルに迫る」ゼミでは「<内なる優生思想>と向き合う」をテーマに、全7回の講義を行いました。今回はそのうちの第4回目『相模原事件と私たち-障害者運動の歴史から-』の講義の様子を前編・後編に分けて抜粋でお届けします。

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2020年2月13日

熊谷さん:

 ちょうど我々が子供だった頃も優生思想はあったし、今も優生思想はあるんですけれども、なんとなく違うところがあるというか。今の方がみんなの問題になっている気がするんですよね。

 当時の優生思想っていうと、割と一部の人の問題で、「自分と関係ない」っていうふうに思っていた感じがある。そうするとすごく親切に助けてくれる人もいたし、すごく親切に殺す人もいた。いずれにしても親切だった。でも、今はすごく敵意むき出しで殺す人っていうのが出てきていると。

 これは多分私は見るところ、優生思想がマイノリティだけの問題じゃなくなってきていると思うんですよね。つまり「みんな優生思想の被害者になりかねない」っていうピリピリ感が、顕在化しているかどうかはさておき、大分行き渡ってきたなという感じですね。

 

 障害者が持っていた優生思想への恐怖心をみたいなものを、今の方がより共有している感がある。だけど、恐怖心を共有しているということは、共感してくれるっていうこととは全く関係がなくて、むしろ逆だったりする。共有しているとその恐怖心を間違った敵に転嫁するということが起こります。

 障害者運動の中でもありましたよね。あまりいい表現じゃないですけれども、頑張って適応している障害者が、私みたいに居直っている障害者に対して、バッシングするみたいなことは、マイノリティ同士で昔から十八番、歴史の一つですよね。

 

 それを敷衍していくと、もはやもしかしたら「1億総障害者」かもしれない。社会があまりに熾烈になってくると「いつ肩叩かれるかわからない」「いつ“用無し”にされるか分からない」っていう不安を皆が抱えることになる。不要とされる不安をヒリヒリと潜在的に感じている人の数が増えているとすると、同じことが起きるでしょうね。逆に連帯のチャンスだと客観的には言えるかもしれないんですが。相模原事件の犯人がそういう不安感を抱えていたかは知る由も無いのですが。

 マジョリティを含め、被害者意識をみんな持ってしまいがちな社会の中に今あって、その被害者意識は加害者探しを要求します。そこで加害者が見つからないときに、ミステイクしてしまう。加害を誰に帰属するかは任意なんです。そこで非常に弱い立場に置かれた人たちに加害者性を転嫁するっていう帰結が世界中で散見されるわけです。

 

 でも構造的にはマジョリティとマイノリティがだいぶ近寄ってきている。優生思想というキーワードは実は両者を繋ぐ部分にあるのかなということを思いますね。

優生思想への恐怖心が健常者にも広がっている

玉木さん:

 多分みんなの中に不安な気持ちがなんとなくあったときに、その不安がどっからきてるのかなっていうことを考えていくことが実はむちゃくちゃ大事だと思う。

 最近、言葉にすごくこだわるんだけれど、例えば優生思想って、「優れた生」っていうことだけれど、「劣っている生」とは何を指すかとか。

 最近「生産性」とかって出てきてたけど、でもそもそも皆「生産性」ってあるのか、「生産性」って何をもって「生産性」っていうのかとか。いわゆる社会に貢献するってことが「生産性」なのかとか。

 

 そういうことは多分答えは出へんけども、自分たちの手でずっと問いかけていかないと、結局どっかですり寄っていった方が楽なのかもしれない。不安なことをちょっとでも安心するためには、長いものに巻かれるじゃないけど、そういう楽な方向に擦り寄っていこうとする人もなんか最近増えてきたんかなと思う。

 

熊谷さん:

 「生産性」の話ですが、障害があろうがなかろうが、全ての人間には二つの側面———生きていく上で何かを必要とする「必要性」の側面と、人の必要性に応えるための「生産性」の側面がある。社会を構成して、みんなの必要性をみんなの生産性で満たしていくという、そんな仕組みを洗練させてきているわけですけれども。

 

 必要性と生産性のどっちに価値は宿るのかを考えたときに、論理的に考えて生産性に宿るわけがない。だって普通に考えて、必要とされないものを生産したからって売れないですよね。だから根拠は必要性にあるというふうに思うんです。

 価値の源泉は必要性で、生産性に価値が宿るのは、二次的な価値。それが必要性と結びついたときのみ派生的に生じるものなのに、優生思想っていうはそれをひっくり返します。命を抹消するっていうのは必要性のかたまりを消すということです。価値の源泉たる必要性の方を、「生産性がない」ということで、抹消するっていうのが優生思想なんですよね。

 

 それこそ今デフレデフレって言いますけど。先ほどの番組に出ていた立岩真也さんという社会学者がよく言っていることですが、不景気といっても必要性が過剰なときの不景気と生産性が過剰なときの不景気があるわけで、デフレっていうのは生産性が過剰で必要性が足りない方の不景気なわけです。

 本当に素朴な発想で経済学の人にいうと、「なるほどね〜」って躱されるんですが(笑)、デフレと言っている割に生産性を煽られ続けるというのはどうも合点がいかない。世の中には購買力につながらない必要性が潜在的に増えている気がするのに、それが満たされていない。潜在的な必要性を市場で顕在化した必要性に変換するところに何か問題があって、それでますます必要性を押し殺して生産性をアピールしなければならない、というのは何かよくわからないなという感じがするんですよね。

「生産性」と「必要性」

そして、分配の話。社会っていうのは皆の必要性をもとに、皆で生産して、その後が大事で、生み出したものを配るんですよね。

 その配り方に2種類、必要原則と貢献原則っていう配り型がある。貢献原則っていうのは生産した量に比例した分を配るというやり方。必要原則っていうのは必要な人に必要な分を配るというやり方ですね。それを割合として混ぜるわけですが、その混ぜ方にその国の財政の形が現れる。

 貢献原則が100%に近くなればなるほど、優生思想がはびこる培地になります。アピールしなければ分け前をもらえないので。いかに「隣の玉木さんには生産性がないから俺にくれ〜!」っていう風にアピールするか、そういうふうな生き馬の目を抜くような状態。

 必要原則で必要な人に多く分配するということがある程度約束されているんだったら、そんなに必死になってマウント取り合わなくたっていいわけですよね。

 

 ただ、いま明らかにどっちの方向に向かっているかといえば、そういう意味で、優生思想の培地みたいなところがあるという感じですね。これからもぜひ考えたいなというふうに思いました。

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