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​【特集】「相模原事件」と私たち<後編>

 東京大学本郷キャンパスで行われた「障害者のリアルに迫る」ゼミでは「<内なる優生思想>と向き合う」をテーマに、全7回の講義を行いました。今回はそのうちの第4回目『相模原事件と私たち-障害者運動の歴史から-』の講義の様子を前編・後編に分けて抜粋でお届けします。

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2020年2月13日

<質疑応答>

学生①:

 お話ありがとうございます。

 やまゆり園の事件について、「そもそも生の権利を人間が規定できるのか」っていう問いが僕の中にはあります。僕は「規定できない」と思っているので、あの事件の正当性も否定しています。そこでまずちょっとお二方にお伺いしたいのが、「生の権利を人間が規定できない」というこの僕の考え方は、ある種の普遍的な倫理の一つだと感じる一方で、でも僕の個人的な主観なのかもとも思います。

 これが普遍的な考えなのかそうではないのかということについて、個人的な見解でも何でも教えていただけたらと思います。

 

熊谷さん:

 超ド級ですね(笑)

 

玉木さん:

 ド真ん中やね(笑)

 自己決定・自己選択っていうけども、人生において、二つだけ自己決定・自己選択ができないところがあると思います。

 一つは生まれるとき。自分で生まれると思って出てきてないはず。

 それからもう一つは死ぬとき、尊厳死とか安楽死とかそういう言葉はあるけれど、実は死ぬときも自己決定・自己選択はないって僕は思ってる。でもやっぱり最後は生きててよかったなと思えるように生き続けるっていう、そういうことが実は大事やと思います。

 難しいことはよくわからんけど、今言われたようなことは僕は賛成です。

 

熊谷さん:

 私も賛成で、さっきの必要性と生産性の関係とも関係しますが、価値の源泉が命なんじゃないかというふうに考えます。他のいかなる論理をもっても命を抹消することは不可能という。

 障害者運動を振り返ったときに、障害者運動っていうのは二本柱でやってきたなと思うんですよね。1本目の柱は「適切な社会の配慮を要求して、能力を最大化できる」という方向。これも大事です。

 だけど、もう1本の柱がすごく大事で、しばしは見逃されやすいんですけれども。所詮1本目の柱は、能力が優れていることが良いことであり、それが発揮されることはいいことだという価値観に立っているんですよね。

 それを補完する論理が2本目の柱で、「任意のあらゆる能力基準と生存の条件を関連づけてはいけない」、反優生思想という柱です。能力基準だけじゃない、いろんなものさしがあって、流行り廃りもあるので、「任意の」というのがすごく大事なんです。どのような物差しを取ったとしても、その能力基準と生存の条件は分断するということ。

 この2つの両立が大事だというのが私の見解です。

 

学生①:

 ありがとうございました。

 お二人に賛成いただいたんですけれども、とはいってもやはりやまゆり園の事件が起きたこと自体が、「生の権利を人間が規定していいと思っている人間がいる」ということへの裏付けそのものであるというふうに思います。このことをどう解決するか、そもそも解決すべきなのかということも含めて、考えなければいけないなと思いました。

学生②:

 お話ありがとうございました。

 『バリバラ』みたいな番組も、こういう講演も、関心がある人しか見に行かない。それだと、どうしても抑圧的な態度をとる人には届かないんじゃないかなと思うんです。そういうことに関して、どういうふうなアプローチを取っていけばいいのか、僕らはどういうことをしていけばいいのか、お考えがあれば聞かせていただきたいと思います。

 

玉木さん:

 ありがとうございます。とても難しい質問、いっぱい来るね(笑)

 例えば今教育の中でダイバーシティとか多様性とか、個別性とか教えるよう言われるけど、実は教員の育成の仕組みの中に多様性が組み込まれていないんですね。

 教員だけじゃなくて、医者も。一応小児科とか内科とか分かれているけれど、本当は包括的な資格なはず。それなのに「いや、うちは小児科やけど知的障害専門じゃないからよそ行って」とか言われることもある。そんな現状。

 

 質問のこと、どうしたらええかっていうと、いろんな仕組みの中でダイバーシティっていうことを伝えていくシステムに変えていかないと、いくら僕がテレビで吠えても今言われたようなことは何も変わっていかないかなと思います。

 むしろこれから皆さんが社会を作っていく。作っていく段階で、どれだけダイバーシティっていう考え方を盛り込んでいくのかっていうことを考えて欲しいなって思います。

 

熊谷さん:

 本当もうあの手この手でという感じですよね、切り札となるようなものはないんですが。

 最近やっぱり企業がすごい頑張ってるなっていうのが思いますよね。以前は企業って何か能力主義の権化というか、優生思想の縮図というか、そんなイメージで勝手に何か敬遠していた…のは私だけかもしれないんだけれども。

 でも、国連も「ビジネスと人権」とか言い始めたし、ダイバーシティに配慮しないと株価が下がるというブランディングが成功している。グローバルに活躍している企業であればあるほど、ダイバーシティの問題には必死ですよね。株価を維持するために。これは一つ非常に大きなチャンネルだと思ってます。

 

 きっと玉木さんもあちこち呼ばれていると思いますけれども、以前は何か企業とかから講演依頼されると、「また変に使われちゃうのかな」とちょっと思っていたんだけれども。最近は、下手すると向こうの方が勉強してたり、ちゃんとしたマニアックな会議出てたりとか。「迂闊だった!」みたいな(笑)

 なのでそこはやっぱり一つの重要な潮目かなと思います。複雑な気持ちもありますがそういうものに引っ張られて、この国は動く面もあり、ある程度距離をうまく置きながらも付き合っていかなければと思います。

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