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​【特集】「相模原事件」と私たち<後編>

 東京大学本郷キャンパスで行われた「障害者のリアルに迫る」ゼミでは「<内なる優生思想>と向き合う」をテーマに、全7回の講義を行いました。今回はそのうちの第4回目『相模原事件と私たち-障害者運動の歴史から-』の講義の様子を前編・後編に分けて抜粋でお届けします。

2020年2月13日

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相模原事件の衝撃

玉木さん:

 熊谷さんはやまゆり園の事件を見てどんなことを思ったのか、今日聞きたかったんです。

 

熊谷さん:

 二つのことを思いました。一つは、急に社会を信じられるようになった、それが18歳の頃だったと先ほどお話したんですけれども、違ったかもっていうふうに思いましたね。

 

 事件の直後、「大変なことが起きた」っていうのを頭で感じたんですけれども、なんだかまだショックが届いていないような感じで。

 そうしたら最初体調不良みたいになったんですよ。事件を見たから、っていう因果関係の自覚はなくて、ただ風邪ひいたのかなと思ってたんです。

 普段私は歌舞伎町通って出勤するんですけれど、交差点があって、前方から出勤時刻には人がワーワーと押し寄せてくるんです。体調不良になってから3日目ぐらいに、そんな何気ない日常に対して、急におびえている自分に気がついたんです。「見ず知らずの人からいきなりやられるんじゃないか」っていう。

 それから記憶のフラッシュバックがありました。玉木さんも経験あるかもしれない。

 医学モデルの時代の記憶です。別に医学モデルで殺そうとはしなかったかもしれない。むしろ生かそうとしていた、生権力だったかもしれないんだけれども、その手つき目つきは等身大の自分を殺そうとしているんですよね。

 

 実際幼い頃にそういう施設で短期入所したときに、夜間とかだと職員も建前が剥がれちゃって、結構虐待しているところを見かけちゃったんですよね。スタッフが足で寝たきりの友達を踏んづけたりとか、叫び声とか。そういうのを日常的に経験していた、そのときの感覚が戻ってきたというか。

 凡庸な言葉で言うと無力感。怒りの向こう側の。無力感というよりは、内臓がドーンと重くなって、肛門からから出ていくような感じというか。

 フラッシュバックが起きた時に「体調不良の原因、これだわ」って分かりました。体調不良だと思っていたのは、当時の無力感の体のフォーメーションが映像よりも先に出てたんだと合点がいったんです。「ああこれは相当堪えているな」というふうに思いました。

 

玉木さん:

 なるほど。僕もね、事件の朝に7時ぐらいにテレビを見て、ニュースの朝番組を見てたら、最後の救急車が7時40分ぐらいに出て行ったんですよ。

 でもね、事件起きたの2時半過ぎで、一報が3時過ぎなのね。「いやいや、この4時間とか何してたの、これ助ける気あるの」みたいな。

 もうその瞬間からゾワゾワしてきて、どこのテレビ番組でもつけても植松の「障害者なんかいなくなればいい」っていう思想を、植松の口を借りて、アナウンサーが連呼する。それを聞いてる障害がある人は一体どんな気持ちになるのか。

 次の日にはNHKに電話して「これなんとかせなあかん」って言って、『バリバラ』を5日目に収録しました。

 

 施設での虐待みたいなことをさっき熊谷さんは言ってたけれど、実は報道であまり言われていないことがあるのね。「こんばんは」って言って、反応がない人が片っ端から殺された。障害者施設で、特に知的障害があって多動症状の人なんかは、医者が睡眠剤を結構きつく入れてるわけですよ。通常やりとりがある人でも眠らされている、声かけられても起きないわけですよ。僕も睡眠薬を使っている時は、起きれない。そこに僕がいたら僕も殺されてるわけですね。

 それから、犯人は職員の指と指を結束バンドで繋いだっていうけど、これ結構難しいんですよ。刃物おかないとできない。その間、職員も抵抗できたはずでしょう。

 そういう「あれあれあれっ?」っていうのがあんまり表面化しない。

 

 熊谷さんが歌舞伎町のそこで感じたこと、僕もあって、僕は駅のホームでは絶対壁に背を向けるとか、絶対線路と平行に止まるとかっていうふうにしてる。

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