【特集】「相模原事件」と私たち<前編>
東京大学本郷キャンパスで行われた「障害者のリアルに迫る」ゼミでは「<内なる優生思想>と向き合う」をテーマに、全7回の講義を行いました。今回はそのうちの第4回目『相模原事件と私たち-障害者運動の歴史から-』の講義の様子を前編・後編に分けて抜粋でお届けします。
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2020年2月13日
"秘め事"をオープンにしてみると、社会は案外優しかった
楽しかったですね。親元を離れて1人暮らしをして。
私は、別に何を隠すこともないんですが、トイレも1人で行かれません。洋服も1人で着替えられませんし。目の前に出てきたご飯だけは食べれるんですが(笑)
どちらが不便かというと圧倒的に一人暮らしの方が不便だった。親元にいる方が手は出てくるというか、「もういい!」ってくらい手助けがあるわけですけれども、自由がないわけですよね。不便だけど、不便もまた新鮮だった。
私は、大学は駒場にいたんです。八畳間のアパートを借りて。そこでバリアフリーとか何も考えてなかったんで、バリア有リー(笑)バリアフルなアパートでした。
何のビジョンも無いなか、当時出たばかりの小型携帯電話をいざとなったら救急車を呼ぶように買っておいて、それで日がな一日駒下のアパートで横になって過ごしていました。そうしたらいろいろ大変なわけですよね。うんちも漏らすしおしっこももらすし、「どうしよう」っていう感じだったんです。
最初の変化は、部屋の合鍵が増えていったことですね。友達が、勝手に合鍵を作ってくれたんです。それで常に勝手に同級生たちが交代でシフトを組んでくれて、私に何もお願いしたわけではないんですけれども、ご飯を運んでくれている。漏らしたうんちを処理してくれたり、そういうふうな当番制が回り始めたんですね。その代わり米びつの米がいつの間にか減っているという(笑)
私にとってその経験は、初めて「社会は優しいかもしれない」というふうに思った瞬間だったんですね。
親からは、東京行きを最後まで反対されいました。「あんた東京がどれぐらい怖い場所か知ってるのか。マフラーなんかするんじゃないよ、首を絞められるよ」とか脅されていました。だから健常者にならなければ社会で生きていかれないっていうと信じ込んでいたんですが、案外全員ではないにしても、漏らしたうんちを処理してくれるんだなと。
簡単に言えば、私にとって失禁という出来事は、“秘め事”だったんですね。何歳になっても失禁してしまうというのは、恥ずかしいことで、家族の中のシークレット。そもそも分泌物というのがシークレットの語源ですけれども。
それがおもらしの公共化ですね。そういうことができるんだって思えたのが、私にとって「おっ、これが自立か」というふうに思った瞬間だったんです。
むしろ「失禁しなくなることの方が自立だ」と思って、それがどんどんプレッシャーになってますます漏らしちゃうみたいな感じだったんですが、「そうか、自立というのは180度逆にあったのか。秘密をパブリックにすることだったのか」と。
頼れる相手を、親だけとか家族だけにするんじゃなくて、広くいろんな人に秘密をオープンにするということ。
オープンにしろと言ってるわけではないですよ。私の自己紹介なんで(笑)
アウティングとかカミングアウト強制するというメッセージを言っているわけではなくて、私の身に起きたことというのはシークレットオープンすることや、頼るものを広げていくこと。これが自立ということのプロセスなんだと思ったわけです。
それ以来、自立というのは依存の反対語ではない。家族だけとか、親だけとか、一部の友達だけとかですね、そういうふうに一部に依存することではなくって、広く様々な人や物に依存をできる状態っていうのが自立なんじゃないかなっていうふうに思った最初のきっかけがその辺りにあります。
案外、社会というのはそういうものを受け止めてくれるものなんだというふうに感じたのが、すごく今に至るまで自信になっています。自分が何かできるから自信がつくのではなく、できないことをオープンしていくことで、社会が支えてくれるかもしれないと信じられたことが自信につながっていくということが1人暮らしという経験でしたね。
「魔が差して」医者になり、カビが生える...
その後私は何故か、若気の至りで医者になってしまってですね。医学モデルの牙城の中に入っちゃったわけですね。先輩方から総括を求められた(笑)あんなに私達に痛い思いをさせてきた鬼ヶ島の鬼たちが住む医学の道に進むという…。入学のときはそんなこと考えてなかったんですけれど魔が差してしまったんですね。
その後またまた魔が差して小児科医になったんですね。研究職になろうかと思ってたんですけれども、小児科に行ったら子供が私の方を見つめたので、「わかった」っていうふうにしてなりました(笑)
それは苦労の連続でですね、1人暮らしのときと違うなと思いました。
1人暮らしで「何か不安なことがあったら、とりあえずオープンにしてさらけ出して助けてって言えばいいんだ、それで全部乗り越えられる」と思ってしまった。
一人暮らしと仕事と、何が違ったかっていうと、どちらでも失敗はするんですけれども、失敗の対価を誰が払うかっていうのがやっぱ違う。
一人暮らしの対価を払うのは基本は私だけです。厳密に言えば他の人にもあるけれど、もっぱら私だけ。でも仕事の場合には、別に医療じゃなくてもお客さんがいる。例えば私が針で小さな赤ちゃんから血を抜くのを失敗したとすると、誰が痛い思いするかっていうと私じゃないんですね。赤ちゃんです。
それを見ている親御さんたちの反感ですよね。ただでさえ、研修医に可愛い我が子を担当させるっていうだけでもイライラしてるのに、なんでうちの子に限ってその研修医が車椅子に座っているのか。「手足不自由そうじゃねえか」と。
実際に1年目の研修医のとき、担当変更を何度となくさせられて、相当しょげました。
人生であんなにしょげてたことはないですね。免疫力が地に落ちて、手足顔とかからカビが生えて始めたんですよ。給食のパンと一緒。血液を調べたら、緑膿菌っていうバイ菌が出てきて…これ、だいぶ弱った人がかかるバイ菌なんですよね。
それで、これは駄目だというふうになっていったんですけれども、もうなんか正常な思考能力も働かない。それで流れるままに身を任せていたら異動になったんですが、2年目の病院は、クソ忙しい病院でした。絶対無理だろうという感じなんですが、でも正常な思考能力もなく、カビも生えているので、風まかせでそこに異動したんです。
「人手不足がダイバーシティの生みの親」
最終的にはそこで何か掴めた感じがしていて、結局は圧倒的に忙しい職場がかえってインクルーシブだった、つまり多様性を認める土壌を備えていた、ということに気がつかされました。
これは私にとって謎の一つで、未だに障害を持った方の就労などでいつも気になっていることなんです。普通私の想像では、忙しいとむしろ排除されるんじゃないかっていうふうに思うんです。だけど、私の行ったその組織はそうではなかった。
自分1人ではこんな仕事をこなせない、圧倒的なタスク量の前に全員が障害者という自覚があるんですよね。
後から聞いたんだけれど、「よく来てくれた熊谷、お前をとにかく1人で当直できるまで育てあげないと、俺たちがあと数ヶ月で死ぬ!」ってぐらい同僚たちは追い込まれていた。だから必死になって、私を育てようとするんです。
「人手不足がダイバーシティの生みの親」というふうに言われますが、「とにかくお前は今日から採血千本ノックだ」と。赤ちゃんからどこからともなく運ばれてきて、朝から晩まで赤ちゃんの腕に針を刺し、血を抜き続けるドラキュラみたいなことを約1ヶ月間やりまして、なんとなく血が抜けるようになってきたなと。
そうしたら先輩が「1人立ちだ」ということで、ついに当直をしたんです。でも、最初の当直のときの記憶が一切ございません。ただ夜明けの缶コーヒーが美味しかったという。あんなに美味しい缶コーヒーはなかったというふうに思います。