【特集】「相模原事件」と私たち<前編>
東京大学本郷キャンパスで行われた「障害者のリアルに迫る」ゼミでは「<内なる優生思想>と向き合う」をテーマに、全7回の講義を行いました。今回はそのうちの第4回目『相模原事件と私たち-障害者運動の歴史から-』の講義の様子を前編・後編に分けて抜粋でお届けします。
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2020年2月13日
熊谷さん:
はい(笑)バトンを受け取りました、熊谷です。
私も玉木さんと同じく、脳性まひという障害を持っています。皆さんなんとなく見ておわかりでしょうが、だいぶ種族が違うというか(笑)
傷んだの脳の場所がだいぶ違うんですね。こう見えて、玉木さんは歩ける。私はこう見えて歩けないけど、口ペラペラ喋るタイプ。千差万別というか、脳性まひも「脳のどこかがt傷んだ人々」っていうそういうそれぐらいの荒っぽい概念なんです。
健常者になるか、施設に入るかの二択ではなかった。
社会モデルとの出 会い
熊谷さん:
私が今年42歳だから後輩にはなるんですが、違うところも十分あるんですけれど、玉木さんとすごく似た歴史をたどってきたんだと改めて感じました。
私も生まれてからをずっとリハビリをしていていました。玉木さんもそうだったと思うんですけれども、とにかく当時はリハビリの目的といえば「健常な子供に近づける」っていうのが目標とされていました。
東大のゼミなんで難しい言葉を使っていかなきゃいけないらしいので、いやそんなことは言われてはないですけれど(笑)一応使っておくと、そういう考え方のことを「医学モデル」というふうに言います。「障害は皮膚の内側にあるんだ、本人の身体の特徴が障害なんだ」っていう考え方です。
一方で、「障害っていうのは皮膚の外側にあるんだ」という考え方をするのが「社会モデル」と呼ばれるものです。例えば車椅子の私が2階に登りたいとなった時に、階段しかない建物の側に障害があるんだという。どこに障害があるかの考え方の違いです。
私達の幼少期は「皮膚の内側に障害はあるのだから直さなければ駄目だ」という医学モデルの時代の中にありました。それで我々もさんざん、文字どおり痛い目に遭っています。もちろん多少効果があった人もいたみたいですけれども、結構大変な思いをした人も多いです。
私の場合は、1日6時間ぐらい毎日リハビリをやって、ずっと泣き叫んで、親が馬乗りになって体を押さえつけて…。私の記憶というのは痛いっていうことと、隙あらば親にかみつくタイミング、親の顔が至近距離に来たら頭突きをする、そのタイミングばかり探っている、そういう記憶しかないです。
その後、80年代ぐらいですかね、世の中がガラッと変わっていったのが、私にとっては救いでしたね。
それが障害者運動の時代というか、障害を持った人たちが、日本だけじゃなく世界中で「医学モデルはおかしいんじゃないか」というふうなことを言ったんです。むしろ変わるべきは、障害者の側ではなく社会の側ではないかと。それで一気に社会モデルの考え方が主流になっていたという時代だったんですよね。
それが、私が多分中学生もう半ばぐらいの頃ですね。もう目から鱗というか、医学モデルの世代は自分の体を直さなきゃ社会に出られないと思い込まされてきた。健常な子供にならなければ、田舎の人里離れた施設に一生入れられるんだという、そういうイメージを付与されていました。
健常者になるか施設に入れられるか、2択しか将来ないって信じ込んでいたから、社会モデルに出会って「いやいやそうじゃない、第三の道があるんだ」と。あなたの体はそのままでも社会の側が変われば、友達と同じように、いろんなことができるっていうことを信じられる時代が来たんですね。それが80年代です。
実際に、目の前でそれを実践する先輩たちが登場しました。玉木さんもその先輩のうちの1人です。私が生まれたのは山口県ですが、山口県はなんでも上陸するのが5年ぐらい遅くて、社会モデルが上陸したのもだいぶ遅かった(笑)
遅ればせながらうちの県にも社会モデルが上陸したときに、自分よりもぱっと見では重度に見える先輩のおじさんおばさんたちが人生を謳歌していた。買い物に行ったり映画を見に行ったり、子供も生まれたらしいとか。
それはもう本当に目からウロコというか。それからはもう彼らの背中を追いかける感じで、「あの暮らしをするんだ」っていうふうなことばかり考えていました。
ですが、簡単に言うとですね、親の愛情には2種類ありまして、医学モデル的な愛情と社会モデル的な愛情とあるんです。
皆さんの親はどうでしょうか、医学モデル的な愛情の持ち主でしょうか。別に障害があるなし関係なしですよ。型に当てはめようとするような愛情でしょうか、それとも社会に対して共に戦いを挑んでくれるような愛情でしょうか。
うちの母は、誰からも「本当に優しいお母さんだね」というふうに言われて、謙虚に世の中に申し立てもせず粛々と私のリハビリをするという、理想的な医学モデルの“愛情深い”親でした。
でも、だからこそ、僕は親と一緒にいたら「これは死んでしまう」というふうに思ってたんですよね。いつもリハビリで全身アザだらけで。そういう倒錯した時代だったわけです。
だから僕は「親元を離れないと私の生きる道はない」と思って、しかも実際先輩がたがそういう道を切り開いてくれているという、この情報が組み合わされると、居ても立ってもいられなくなった。
親元を離れて暮らしたかった、けれど施設も嫌だった。障害者運動は家と施設が嫌っていうところが基本にあるんですね。家族と施設は拒否する。これは障害者運動の「いろは」なんですね。なぜなら家族と施設は痛い目に遭うから。
そのどちらでもない、「みんなと同じようにアパートを借りて暮らしたい」と思って、親に言ったんですよね、そうしたら「いやそんな危ないから、私もついて行きます」っていうわけですよ。
でも、ついてこられたら意味がないわけですからね。当時の公共交通機関で親が日帰りでは来れない距離…東京行きを決心したのが18歳ぐらいでした。
親はとにかく「山口周辺の大学に行ってくれ」と。親が通えるからという、ことですけど。それは危ない、それは地獄の1丁目であるということがわかっておりましたので、追手を逃れるようにして、東京に来たわけです。