​【特集】「相模原事件」と私たち<前編>

 東京大学本郷キャンパスで行われた「障害者のリアルに迫る」ゼミでは「<内なる優生思想>と向き合う」をテーマに、全7回の講義を行いました。今回はそのうちの第4回目『相模原事件と私たち-障害者運動の歴史から-』の講義の様子を前編・後編に分けて抜粋でお届けします。

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2020年2月13日

 『クレヨンしんちゃん』の絵が前にあるけど、僕最近「しんちゃん」って言うたびに熊谷先生のこと頭に過ぎるんですよね、「『しんちゃん』や!」思う(笑)

 右はチロルチョコのバラエティーパックっていうので、ようはバラエティーっていうのは割と明るいとかお笑いとかそんなイメージがある。

 ところが、例えば隣でチロルチョコ見ながら「アー!」って大きな声出してたら「この人大丈夫かな」と思うでしょう。

 バラエティーも実はこういうことでね、変化があるとか多様性———いろいろあるっていうことでいくと、ダイバーシティと実は似たような言葉なんです。

 

 あとは24時間テレビの裏でやった、『笑いは地球を救う』っていう結構揶揄した番組があるんですけれども。

 感動ポルノ、インスピレーションポルノっていう言葉があります。ステラ・ヤングという人がTEDで10分ぐらいのスピーチをしたんです。彼女は骨形成不全症でもう亡くなりになったんですけれども、コメディアンでジャーナリストっていう素敵な人。

 喋り出しの時ですよ、「私は皆さんの感動の対象ではありません。どうぞよろしくお願いします」って言って始まる。

 

【TED ステラ・ヤング: 私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく】(Youtube)

 

 それは何かっていうと、結局感動の誤解、「障害があるのにすごいね」とか、かわいそうな人から頑張っているところを見るっていうのが感動っていう現状がある。

 

 ところが、僕なんかは言語障害あるけれども、生まれつきこの喋り方で、これが普通なんですよね。「喋るのしんどいでしょう」って言われるけど、普通やから。しんどくもなくてですね。でもそういう見方が一般的にはされている。

 一方的に与えられる「感動」でマスターベーションをするんじゃなくて、おいしいもの食べておいしいね、綺麗なものを見て綺麗ね、って言っていく。一緒に怒ったり、笑ったり、考えたり、想いをすりあわせる中で、相互に確認していくことで感動が生まれるんやと、僕は思います。

 

 バリバラやってる理由は、いきなりお固いんですけどね。障害者権利条約の第8条で「意識の向上」っていう項目があって、第1項に「障害者に関する社会全体(各家庭を含む。)の意識を向上させ、並びに障害者の権利及び尊厳に対する尊重を育成すること」とあります。

 この条約の一番下の方に、「全ての報道機関が、この条約の目的に適合するように障害者を描写するよう奨励すること」って書いているわけです。偏った描き方だけを放映しちゃったら本当はやばいよっていうことが、ここに書いてるのね。

 だから、『バリバラ』はたまに「あれ?」って思うのもあるかもしれんけど、そういう形で伝え続けなあかんかなあと思います。

「バラエティー」の誤解・「感動」の誤解

 僕のことちょっとだけ言うと、もう51歳。生まれて来るときに遅かったのね、それで酸欠になって。生まれてから、それこそ熊谷さんと似てるんやけど、障害を治す目的で施設に入って、治療してたんです。

 これは僕が施設に入所してて、これはお泊まり保育なんですけれども。365日、こんなに小さい子が親元を離れて施設で暮らしていることの異常さ。それはすべて、障害は悪いもので、治してあげようという、「良かれと思って」でこうなってたわけですね。こういう状況を見ても、「それでも障害は直さなアカン」って。皆さんが思うかどうかですね。

 その後僕は地元に帰って、幼稚園にはすっと入ったんだけど、就学前健診で「あんた養護学校いけ」って言われて、今の特別支援学校ですね。でも、話し合いを重ねたり、いろんな検査をした結果、小学校、中学校は、普通の学校に行って、高等学校だけ全寮制の養護学校の高等部に行った。

 これは林間学校の時の写真だ僕は介助も何にもいらないんだけど先生がついてくれたんですね。なんでかって言うと、担任も安心、僕も安心、周りの友達も大人がそばにおったら安心、って言うことでつけてくれたんですね。これ40年前の話ですよ。

 今何が行われるかっていうと、下手をすれば「ヘルパーつけてくれ」、もっと進むと「お母さんついてきて」、ひどい学校では「修学旅行は遠慮してください」ってことも実はあるんですね。

 今、特別支援学校に行く人が増えています。何かっていうと発達障害っていう人たちが増えてきて、特に親御さんが心配して、勉強ついていけんかったら困るとかっていうことで、一回ワンクッションこういう形でおくんですね。ワンクッション思春期で置いておくと、なかなかに元に戻るのは至難の技ですよ。僕も高校卒業する時、大学入学する時、「健常者とちゃんと喋れるやろか」「勉強ついていけるやろか」とかいろいろ心配をかけたんですね。そういうことを考えて行くと、本当に分ける意味っていうのは、僕の理解できないなあと思う。今の教育現場には一緒に勉強するための工夫が足りないと思ってる。

 

 僕自身はそのあと福祉どっぷりで生きているんだけども、熊谷さんと今日話しができたらいいなと思うのは、「結局自立ってなんやろか?」っていうこと。

 多分ね、昔は自分のことを自分でしましょう、自分で稼いだ金で暮らしていきましょうとか、自分で産んだ子供は自分で子育てして、とか。

 一方でこの自立っていう概念が称揚される割に、女性は仕事じゃなくて子供産んで欲しいとかね。「LGBTは『生産性』がない」とか…。

 LGBTは、って言ってるけど、実は女性の中でも病気とかで赤ちゃん産めない人や、育てたくても育てられない人は沢山いるわけで。それこそ多様性を考えておけば、ああいう発言は出てこないわけですよね。それをしちゃってる政治家なんかが一体どういうことを考えているのか。

 自分の暮らしは自分で決めるっていうことが始まりで、その上でできないことは手伝ってもらえばいいわけですよね。それが自己決定とか自己選択、生活をどう組み立てて行くかっていうことが、僕の今の仕事です。

 ということで「しんちゃん」に代わりたいと思います(笑)

「障害者」と「健常者」はなぜ分けられているのか

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