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ゼミ日記(1/8)

年末年始、浮かれているような空気が出てくるのって強制的に巡ってくる区切りだからか、停滞して凝り固まっていたもの、自分で手をつけたくないなとなっていたものに、外的に変化が与えられるのは、その結果が良きにせよ悪しきにせよ変化そのものは悪いことではないのかなって。

変化というと、コロナ禍。 喘息や花粉症の方が、コロナと間違われないよう、バッジをつけるようになった とか、マスクをつけられない感覚過敏の方の説明用のカードができたとか、それ まで特に問題とされてこなかったものが問題とされるようになったり、目に見え てわからなかったものが目に見えるようになったりした。

目に見えて白杖をもっていたり、車椅子だったりだと、良くも悪くもわかりやす い。 目に見えてわかりづらいもの、発達障害とか感覚過敏とか。自分と同じはずとい う想定が基本になってしまっていて、いろいろと不便が生じているんだろう。 目に見えているからってサポートに回れるわけでもないなあというのもある。個 人の事情を鑑みず、先回りしてしまったり、型にはめてしまいがちだというとこ ろが問題になるという話も昨年うかがった。

話を聞く余裕があったらそれが最適なんだろうけど、心情的にも、危機管理的に も、それはなかなか難しい。

「知らない人」は怖い。それでも関わる/関わらざるを得ないとしたら、防御力を もたないとかかわれない。自分の思い通りに周りが動くとしたら防御力なんてい らない。そうでないから必要で、それは想像力を広げることで手に入る気がする 。自分の親切を相手がありがたく受け取ってくれるとは限らない、自分の当たり前 が相手を傷つけることになるともしれない、相手は自分が警戒する必要のある相 手であるとは限らない、、、みたいな。

これらを常に考えることは難しいしだるい。自分が好きな解釈、慣れ親しんだ解 釈に頼ってしまいがちになる。そもそも余裕がないと無理だなってのもあって、何かしらトラウマや遺恨がある人にとったらそもそも別の解釈を持つこと自体が難しいかもしれない。これはアイデンティティーみたいなものだったりして。 ある解釈によらないと生きていけない人もいるかもしれないってのはあって、そ

れらのない人、自由度が高い人、考える余地がある人は、考えを広げると、自分 のためにも他人のためにも、いろいろと利がある気がした次第です。


永沼くるみ

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