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出会い

                                    

人をまっさらな目で見たい、

 そう感じた背景には大学生としての思いがありました。僕は、日ごろ、国内外で起こる社会問題をニュースや本から見聞きし、その問題がどのようにしたら解決されるのかを考えていたのですが、いつしかそれは頭の中で洗練された論理を考えだすのに奔走していて、実際に関わり合う人がどんな人なのか、その具体的な物語を置き去りにしてしまっていると感じ始めました。例えば難民問題では、シリアやミャンマーで迫害を受けて困っている人がいることを知っても、そこには実際に誰がいるのか、その人はどんな生活をしているのかといった個人の物語を、「難民」という大きな主語の中に埋没させているように感じたのです。自分はいま、誰のことを助けようとしているのか、、、その本人のことをよく知らないまま支援すること、抽象的な枠組みだけが一人歩きすることに違和感を覚えました。

 そんな中、僕は「障害者のリアルに迫る」ゼミに出会いました。ゼミの中では、毎週の講義でゲストとしてお招きした当事者の個人の語りを聞くことを大切にし、大きな主語の中に個が埋もれないことを目指していました。「障害者」はこんな人だ、といったレッテルを剥ぎ取り、目の前のひとがどんな人なのか、どんな生活を送っているのかを知ることで、その人の「リアル」を浮き出そうとするのです。そしてゼミの講義を聞くうちに、これまで自分が「障害」者や「難民」を「被支援者」として見ることで、彼らにあるはずの日常の温かさまでも頭の中で奪っていたかもしれないと感じ、カテゴリーで人を括ることの危うさを痛感していきました。大きな枠組みで語る前に、現場に実際に足を運び、目の前の人に出会い、具体に根を下ろした行動をすることの大切さを感じたのです。

 僕自身、先日、ゼミの運営で訪れた厚木市のカミヤト凸凹保育園の見学では、事前に「障害」のある子供が園内にいると知ってはいたものの、日々、人をまっさらな目で見よう見よう、と自分に言い聞かせていたせいか、子供たちから「障害」のあるなしを痛感することはなく、個性豊かな一人一人の子供たちと出会うことできました。

 とはいっても、いまだに社会が作ったカテゴリーで人を見てしまうこともあります。ですが、自分のこれからの日常生活では、ボランティアとして「貧困の子供」を助けるのではなく、目の前で出会った一人の子供と対等に話すこと、「障害者」の生きづらさを聞くのではなく、目の前にいる一人の語りをきくこと、「〇〇大学」の学生と話すのではなく、「留学生」と交流するのでもなく、「何者」でもない目の前の一人一人と出会うことを大切にしていきたいです。


三宅大生


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