ごめんなさい。
当事者じゃなくて、ごめんなさい。
あなたの痛みが分からなくて、ごめんなさい。
ゼミに出はじめたころは、正直、毎回、こんな気持ちだった。
受講生のまえでご経験を語ってくださるゲストの先生。
ぼくたちはお行儀よくノートを取りながらそれを聞く。
東大の教室という場所性も相まって、当時のぼくには、自分が何だかとても不躾なことをしているように感じられていた。ゲストの方の存在が、ぼくたちに何かを問いかけているように思われて、だけどそれに対する応答はできない日々。
でも、だって、本当に辛いことだけれど、当事者の痛みは、本当のところ分からないんだもの。
自分は当事者じゃないから分からない。分からないことを分かった気になるのは嘘だ。そう考えたのは、自分なりの最低限の誠実さだったと思う。
だけどそこで、ぼくは自分が当事者じゃないことが辛かった。ゲストの先生との間に、何か交わらない、非対称性のようなものを感じていた。自分が「健常者」であることに、何か罪悪感のようなものを抱いていたのだと思う(障害者と同じように、健常者というのは作られた概念だと分かっていたのに)。
だからぼくは、自分の当事者性を探した。
結論からすれば、自分にとって、当事者性を感じられる症状や病名を見つけることは難しくなかった。というか、それまで見ないようにしていたものが、(診断名のつきそうなものも含めて)一気に噴出してきたところがあった(今では、それはそれで有意義な作業だったと思う)。
だけど、何か、何だろう。
マイノリティ性を持っていて、特定の困難を生きていないと、障害について語ってはいけないのだろうか。障害は「当事者」の問題なのか。
それってやっぱり、何かおかしい。
誰もが当事者で、これは社会の問題なのだ。議論に参加するのに、本人の身分や属性は関係ない(こんなこと、社会モデルが何十年も前に教えてくれたことだ)。
もちろん自分が経験したことのない障害や困難はいくらでもある。だからこそ、当事者の特権性は否定できない(当事者研究は大事だし、参入資格のある当事者コミュニティは掛け値なしに重要だ。リアルゼミの理念だってそのことに基づいている)。
それでも問題が社会にあって、自分が社会に生きている以上、自分も問題の当事者なのだ。他者の痛みに直接触れることはできないけれど、問題の一端を分け持つことはできる。そんな中途半端なことを言ったら、怒られるだろうか。だけど、そのためにリアルゼミがある。
登壇者とお会いして、自分がどれだけのことから目を背けて来たのかを知る。想像することさえできない、痛みや苦しみの存在を知る。そうした出会いを通じて、いつか障害が自分の問題になる(甘っちょろいことに変わりはないけれど)。
だからやっぱり、かけるべき言葉は、ごめんなさいじゃない。
ありがとうございます、だ。
ありがとうございます。
当事者の声を聞かせてくれて。自分も当事者であることを思い出させてくれて。
そんなつもりで、今週も教室に向かう。
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