2019年度Sセメスター運営紹介#7

最終更新: 2月2日

規範社会の臨界点とフェアネスの参照点 / 山南達也(教養学部4年)



 ステレオタイプに基づいた粗雑な議論は、時に差別や偏見の温床にもなる。障害というアクチュアルな問題に対して抽象に満ちた思弁を振りかざすのは、あるいは暴力的なことかもしれない。そういった危険性を了解しつつ、それでもなお、自分を表現へと突き動かすもの。言葉という諸刃の剣に、自戒の念と祈りを込めて。



 東大生の多くに共通する性質として、規範に過剰適応しようとする点が挙げられる。彼らは学歴至上主義の社会規範に従って受験競争に打ち勝った集団であり、大概は"良い"就職先を求める。属する集団の秩序に敏感な者も多い。規範という言葉は、価値・評価・期待・理想などの言葉と親和性が高い。


 書籍『なんとなくは、生きられない。』の学生原稿からも、この過剰適応の性質が見て取れる。タイトル「他者」の稿の著者は、他者からの評価(=規範の達成度)を意識する自身の気質を「他者依存」と表現しており、「自分」稿の著者は、その規範に自らの努力で以って適応しようとする姿を「自分依存」と評している。両者の掲げるタイトルは対照的だが、それは焦点化された問題の次元の違いに由来するものであって、内容的にはむしろ連続している。


 過剰適応には幾つかの観点で弊害がある。

・規範への適応には自律を要する。例えば面白くもない勉強を強いられることもある。自律には欲求の抑制が必要であるが、際限なき自己抑制は突き詰めると自己喪失へと行き着く。「他者」稿に登場する、「他者からの評価を気にする自分」が「何かトガりたい自分」を押し殺してきた、というフレーズが象徴するように、規範は欲求をからめ捕る。外的な適応と内的な不適応とは表裏一体だ。大学という客体から主体への転換が求められる場において、欲求=主体性の喪失は時として致命傷を生む。

・規範の達成追求の営みには、どこかで限界が訪れる。1つの理想を達成すれば、今度は一段上の理想が輝かしく目に映る。規範は原理的にはどこまでも純化できる。しかし、ごく少数の当代無双の人材を除いて、人々は(もちろん東大生を含めて)「登るたびに段が足されていく」評価の階段をのぼりきることができない。かといって、自らの内面化する規範に中途半端に適応できる人は、その階段から降りることもできず、ただ先行く人を眺めて彼我の差に苦しむのみである。逆説的だが、規範への過剰適応は、不可避的に規範からの逸脱をもたらす。自尊心の拠り所であるはずの評価の階段が、社会に自己否定感を染み渡らせる。


 単一の規範でさえ人々を苦悩に陥れるのに、数多くの規範が存在するこの世界では、規範と欲求の対立だけでなく、規範同士の対立の問題もが生じうる。相矛盾する複数の規範に直面した個人は、準拠すべき指標を見失い、心理的に引き裂かれてしまう。私は軽度知的障害者の姉を持つ「きょうだい」の立場の学生として、その葛藤の中でもがき続けてきた。家族としての愛情規範と、成熟や適応に価値を置く健常者社会の規範。(換言すると、「弱さ」の受容を求める福祉的規範と、「強さ」を志向する教育的規範。) さらには、当人の自己決定を重視する規範と、リスク管理を求める規範。中庸という単語が空疎に響くような、適応の両立が困難な複数の規範を前に、私たち家族は立ちすくんでいた。(エピソードの詳細はタイトル「罪を背負って」の原稿を参照。規範からの逸脱は往々にして罪責感を生み出す。)


 規範は人々に対して抑圧的に作動する。そして障害者こそ、その事実を鋭く体現する存在だと言える。あるいは、規範とは「健常者的なるもの」に価値づけを行う装置であり、逆に障害とは「規範からの逸脱」として構築・析出される属性だ、とでも言えるだろうか。社会が個人の身体や振る舞いに規範を要請するが故に、それに沿えない者が「障害」という烙印を押されることになるのだ。産業社会が知的障害の病理化を推進し、ポスト産業社会が発達障害の病理化を推進したことなどからも、障害と規範との密接な繋がりの存在が窺える。もっと言えば、障害者の芸術作品が近年、アール・ブリュットとして称揚されているのは、アートの世界には"逸脱"そのものに価値が宿るという特殊性があるからなのだろう。



 前置きが長くなった。リアルゼミで、東大生は障害者から何を学び取っているのか? 「逸脱者としての身振り」がその答えの1つだと、私は理解している。


 評価を求める存在は、評価から逃れられない存在でもある。そんな東大生に対して、障害のあるゲストたちは、等身大の自己を曝け出す。彼らは無理に規範に同化しようとはしない——それは限度がある営みである上、規範を礼賛する行為は、その規範に沿えない自分自身を否定する行為でもあるからだ。「差異派」の体現としてのそのリアルな姿は、聴衆たちが盲信してきた規範の絶対性に揺さぶりをかける。障害のある彼らは、単に規範から逸脱しているだけの存在ではない。その逸脱を生み出す評価軸それ自体から<逸脱>した、ある種の超越的な人たちである。その<逸脱>=超越は、強者と弱者の二項対立を無化する働きを持つ。


 規範からの逸脱は、運命的に引き受けざるをえないものだが、規範社会からの<逸脱>は、個々人の能動性に基づいて遂行できる。無論、関係の中に生きる我々にとって、是が非でも遵守する必要がある社会規範というものは存在する。だが、この世の意外と多くの規範は、意味のない共同幻想か、むしろ不満の噴出を起こす負の遺産に過ぎないのではないか。既存の規範を"タブーなく"疑い、一歩離れ、勇気を持ってその外部へと飛び出すことで、人は初めて自由になれる。


 規範はその達成度によって強者と弱者を二分し、序列=タテの関係を生む。弱者は当然抑圧の対象となるが、強者もまた(例えば男性学の知見が明らかにしてきたように)その集合の中で抑圧されたり、「抑圧する者」として抑圧されたりする。抑圧とは再帰的な性質を持ち、人々を分断へと導く。


 目指すべきは、序列や抑圧のないヨコの関係、すなわちフェアな世界である。「きょうだい」という自らの当事者性に思いを馳せた時、本来であれば、兄弟姉妹という関係性はフェアネスの概念を象徴するものだったのではないか、と痛感する。「障害」という抑圧を生成するファクターによって、同胞との間に対等な関係を構築できなかった自身の過去を省みながら、私はこのゼミと社会に対して希望を持って、フェアな関係の実現と拡大とを夢見ている。



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