初めまして。東京大学工学部3年の花畑三華と申します。
私は当ゼミを昨年度のSセメスターで受講をし、Aセメスターから運営側として携わっています。
運営側で、と言っても、私は他の学業との兼ね合いもあり、あまり積極的にゼミに関わることができていません。
このように説明しつつも、たぶんこれは言い訳で、私がゼミに向かい合いきれないのは他に理由があるのかな、と時々考えたりします。ですが、一言で答えが出るわけではありません。
こんな私がゼミを受講したきっかけは、確か大学の先輩がツイッターでおススメしていたのをたまたま見かけたこと、そして、なんとなく「障害」というものに自分は無関係ではないと感じていたことでした。
私は6人兄弟の末っ子で、姉の一人が重度の知的障害者です。兄も、診断はないのですがおそらく軽い自閉症です。
姉の障害もあり、私は小さい時から障害者との毎日を過ごして生きてきました。保育園児だったときは、「お姉ちゃんなのに」おもちゃを独り占めする姉にムカムカし、「お兄ちゃんなのに」子供っぽくて怖がりな兄にがっかりとしていました。
そんな私にとって障害は当然、身近なものでした。そして自分は人よりも障害や障害者について理解がある、と考えていました。
こうした考えはゼミを受講し始めてから何週間かして、すぐに打ち砕かれることになります。
ゼミで講師をしてくださる方は本当に様々で、視覚障害や聴覚障害、さらには依存症の方など、私が今まで全く知らなかった世界を教えてくれました。
私にとって「障害」とは、知的障害で容姿から一目で障害とわかる姉の「普通じゃなさ」と、自閉傾向のためか社会に馴染めず、非行に走り引きこもりになってしまった兄の「受け入れられなさ」でした。
ですが、障害というのはそれだけではない、そんなことだけではどうやったって語り尽くせない、という事実だけがただ目の前に立ち現れて、正直、私は障害への向き合い方が分からなくなりました。
そして、それは今も分かっていません。
障害に対する分からなさは、おそらく「悔しさ」もあるのかな、と感じる時があります。
ゼミで出会う「障害」の人々は、言わば「表の世界の」障害者。単なる知的障害の姉のような人や、兄のようなどこにも行けない人はフォーカスされません。(これには様々な理由があり、全く批判ではありません。)
フォーカスされるような痛みであればよかったんだろうか。なんでこうなんだろう。悔しい。
こうした言葉にできないドロドロした感情がふとした瞬間に心を掠めます。
障害者のリアルに迫るゼミは、障害についてタブーなく語るとともに、社会にある障害について考えたり、自分の身の回り、または自分自身の中にある障害について考える場になっています。
考えることはドロドロとしていて、苦しい。でもその中に何か、自分の知りたいことがあるんじゃないかとひっそり期待している。
だからこそ、私は色々な理由で積極的になれずにいる中でも、ゼミに関わり続けているんだと思います。
考えることを止めない人たちが集まっているこのゼミを私は尊敬しています。
新しい気づきが得られることを願って、ゆっくりでもいいから私も共に歩んでいければと思います。
Comments