初めまして、東京大学文科1類・2年の山本斐海です。
以前の記事に登場した大久保・林と同様、1年の夏学期から受講し、秋学期から運営に携わらせていただいています。
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「障害者」って、誰?「健常者」って、誰?
大学に入学してからずっと、私が考え続けている問いです。
今から1年半ほど前、高3の夏の終わり。全校700人が集まる集会で、私はこんなスピーチをしました。
「障害を持つ人と接する時に初めから構えすぎることは、その人との大切な出会いを無駄にしてしまうことだと思います。」
「障害を持つ人が持っている豊かさ、持たない人と同じだけ持っている豊かさに惹かれる人が一人でも増えたらとても素敵なことだと思います。」
みなさんが聞いたらどう思われるでしょうか。
今の私はこう思います。
「なんて偉そうな。何も知らないくせに知ったようなことを。優等生ぶって……。」
振り返ると恥ずかしいスピーチですが、当時の自分が抱いていた「障害者」に対する感情を少し覗いてみます。
幼い頃から、私の近くにはいつも「障害者」がいました。
知的障害・精神障害を持つ伯父と一緒に、マクドナルドのハッピーセットを集めていました。夏には両親が働く障害者施設のお祭りへ足を運びました。
幼い私にとって、彼らは大切な「一人ひとり」でした。それだけに、歳を重ねるにつれて、彼らをカテゴライズする「障害者」という存在への「タブー」を感じるようになって、居心地の悪さを覚えていました。
なぜ彼らはタブー視されるのか。なぜ人々は彼らを見ると動揺し、その動揺を隠そうと必死になるのか。なぜ、彼らを話題にあげることを避けるのか。
よくわからないことだらけで、でもなんとなく嫌で、冒頭のような「良い子ちゃん」スピーチをしました。
そんな中、高3の冬にNHK「ハートネットTV」でこのゼミの存在を知りました。「タブー視しない」ことを謳うこのゼミに憧れ、大学入学後、迷わず初回ガイダンスへ足を運びました。
ゼミは、「一人ひとり」が好き、という自分の感情を肯定してくれます。
毎回の講義や合宿を通して多くの方に出会います。ゲストの方々は個々のライフストーリーを語ってくださり、近い距離でお話することができます。彼らは私のイメージして来た「一人ひとり」です。一人ひとりと出会い、ゼミの仲間と話す時間が、私にとってこの上ない幸せです。先日運営の仲間に投げかけられた、「なぜ、受講にとどまらず運営までやっているのか。」という問いの答えは、間違いなく「人と出会って、話すのが好きだから」です。
ただ他方で、自分の「負」ともいうべきモヤモヤした感情に向き合わざるを得なくなり、苦しくなります。このモヤモヤがあるから、冒頭のスピーチに対して「優等生ぶって…」と思ってしまいます。ゼミに入って気付かされたのは、私自身が「障害者」と「自分」の間にはっきりとした線引きをしていた、という事実です。
私の右手には高1の頃から疾患があります。軽いものですが、右手で文字を書いたり物を持ったりすると痛みが走り、「普通の人」のようにそれらを行うことはできません。日常生活においてしばしば周囲の助けを必要とし、周りの人と同じ試験を受けて最後まで書ききることが難しかったため、今年度からはバリアフリー支援室や教務課に相談をしながら履修をすることにしました。
このゼミに参加しているうちに、ゲストの方々の経験・感情と、自分の右手が痛いことによる経験・感情がリンクしてきました。思いもよらない問いが浮かんできました。
じゃあ、私は障害者なのか?
何度考えても、自分の中では、NOなのです。
「障害者」か「健常者」か、境なんてない。「障害者」と言われる人たちだって私たちと変わらない一人ひとりなんだ。困りごとがあればそれは障害と言えるではないか。ゼミのゲストには、「障害」という名を持つ人だけでなく依存症やセクシャルマイノリティの方など様々な人をお呼びしたい。誰もが「障害者」であり得るんだ……。とか言っているくせに、その考えは今変わらないのに、なぜかNOなのです。
なぜNOなのか……。
NOであることは、私の中に罪悪感に似たモヤモヤを生じさせます。
今後もたくさんのゲストの方にお会いして、ゼミの仲間と話して、モヤモヤに向き合っていきたいと思います。
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今学期のゼミは、明日4/19(金)の5限(16:50~)から開講します。東京大学の学生でなくても参加できます。気軽に来てくださると嬉しいです。
山本斐海(2018年度夏学期受講/2018年度秋学期運営/2019年度夏学期運営)

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